2005年12月27日

生き様という言葉は無いらしい

あまり世間がディープインパクトについて騒いでいないね。負けるのは想定の範囲内だったのか、フィギュアスケートの方がインパクト強かったのか。私は有馬記念よりスケートをちゃんと見ていました。

大村は戊辰戦争後、新政府の幹部となり軍制を担当する。
木戸・大村の主張は徴兵による「農兵制」であったが、薩摩・長州・土佐藩兵を中心に兵を編成するという主張の大久保等と対立。会議は独裁者大久保の主張が通り、大村は一旦野に下る。しかし、実力・声望の上から見て大村に変わる人材は無いという木戸等の主張により政界に復帰。兵部大輔に就任することとなった。
大村は兵部大輔に就任すると、早速戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」 山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。山田は山口藩諸隊からを中心に約百名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始している。また大村は、2年6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪に兵部省の兵学寮を設けた。このほか京都宇治に火薬製造所をまた大阪に造兵廠を建設することも決定された。このように大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった 。そのほか大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある 。
このように大村が着々と既成事実を構築していた明治2年9月4日、彼は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」は、大村襲撃の理由が彼の急進開化主義に対する強い反感にあったことを表している。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され数日間の治療を受けた後、大坂の病院入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去。享年46。

大村の「農兵論」は彼の後継者である山県有朋に引き継がれて、後に徴兵令として実現される事となる。


ここまでくると大村の凄さがわかる。大村は確固たる防衛構想を持った軍人なのだ。大久保は大した男だがやはり武士であるという事を捨てきれない。兵農分離以来の軍事は武士が担当するという考えを改められなかったのだろう。対して大村は軍の近代化を目指した。時代の流れによってこれは実現したのである。
そして大村は刺客に襲われ命を落とす。そう動乱期の実力者というのは暗殺の標的になるのだ。奇しくも大村と対立した大久保も暗殺されている。
考えてみれば、西郷・木戸もろくな死に方をしていない。日本に生まれた英雄の運命なのか。

posted by 入船亭扇里 at 01:13| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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