2007年01月10日

実は父方が福島県な私

今日は昨日より太鼓叩きました。
雲助師匠、正朝師匠、白酒師匠、世津子先生、小袁治師匠、扇橋、さん喬師匠。腕が鈍ってます、これでも昔は上手だったのですよと大きな声で言いたい。(誤魔化すのは今でも上手)

競馬の予備校で「奥州探題」に任命された黒組盟友の甘利千曲さんが「奥州探題とはなんぞや?」という事ですので、調べました。

Wikipedia 奥州探題

明徳3年(1392年)、3代将軍足利義満は鎌倉公方足利氏満と和解し、陸奥、出羽両国が鎌倉府の管国に加えられ、奥州管領職は廃止された。陸奥、出羽の国人も鎌倉府への伺候を義務付けられる。応永6年(1399年)、鎌倉公方足利満兼は満貞、満直の二人の弟を稲村御所、笹川御所として下向させた。しかし、この頃から将軍と鎌倉公方の関係はかなり悪化しており、幕府は関東や奥州で鎌倉府時代と対立している有力国人を京都扶持衆として直臣化して鎌倉公方に対抗した。また、応永7年(1400年)には大崎詮持を奥州探題に任命したという。以降大崎氏が世襲する。


私は室町幕府が設置したと勝手に思っていましたが、元々は鎌倉府の傘下にあったんですね。奥州探題は鎌倉府直属で守護のようなものだと思えば良いだろう。以後伊達稙宗(政宗の曽祖父)が陸奥国守護職に任じられるまで大崎氏が世襲し、晴宗(稙宗の子)が奥州探題に任じられ伊達氏が世襲。ケン坊さんも指摘していますが、政宗の時は室町幕府は滅んでおり自称であったと。

室町幕府の対立者と考えるとまず南朝を思い浮かべますが、鎌倉府(鎌倉公方)も大きな存在だったのです。武士の勢力の強い関東に幕府を置く事ができなかった幕府は、尊氏の次男基氏を派遣し以後鎌倉公方と呼ばれるようになる。要は南北朝と同じで、将軍が二人居るような状態だった訳です。以後何度も幕府と対立していきます。上杉謙信が拝命した関東管領はこの鎌倉府の役職です。
posted by 入船亭扇里 at 00:47| 東京 ????| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
このあたり、興味ないのも手伝い、相当知識薄いです。
Posted by ケン坊@大納言 at 2007年01月10日 01:03
ご丁寧にありがとうございます
m(__)m

そぉかそぉか ふむふむ…

私 武田の臣下甘利家が我が家のルーツと教え育てられました故 当代家中唯一の馬屋である事に誇りを感じる反面 諸国の事情にはとんと疎くございます
(^^;

これからは広く諸国事情等も学んでいきたいと存じます

またご指南下さいませ☆
Posted by 甘利千曲@奥州探題 at 2007年01月10日 16:26
>ケン坊さん
この時代に対する興味が無い原因は教育ですね。私はちゃんと教わった覚えがありません。戦国時代以上に強いリーダーシップとか見られて面白いんですけどね。まぁ個人的に古代と南北朝期が好きなんで。

>甘利千曲さん
とんでもない、切り張りしただけですし、楽しかったですよ。
甘利虎泰と言ったら「超」の付く有名な武将じゃないですか。というか甲斐源氏じゃないですか。
Posted by 扇里 at 2007年01月11日 00:04
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