まぁこうやって落語と関係なくただ歴史の話を書いているのも楽しいものです。アクセスは落ちてますが(笑)
四代義持は息子の義量に将軍職を譲りますが、義量は十八歳で夭折。しばらく将軍不在という事になりました。義持は後継者を決めず死去します。その時に「たとえ余が後継者を決めても、大名達がこれを支持しなければ意味が無い」というような事を言っています。つまりは義満の時にあれほど強かった将軍の力も地に落ちていたという事です。
悩んだ大名達はなんとくじ引きで後継者を決めます。石清水八幡宮行われたそのくじの結果は「青蓮院 義円」後の義教でした。
足利義教Wikipedia
他所から見れば「くじに当たった幸運な奴」でしょうが当人は違います。「私は神に選ばれた。私の意思は神の意志である」です。
同じ年に正長の土一揆が起こり、鎌倉府は強大な力を持っていて、九州は再び混乱に陥ってた。それもこれも将軍の力が弱く統制できないからで、義教はこれを復権すべく将軍の近衛軍とも言える奉公衆を強化します。
そして九州の統一を目指す。義満の時代に九州探題として派遣された今川貞世が九州の内八カ国の守護となってしまい、義満が慌ててこれを解雇したため、大友・大内・少弐の三竦み状態になっていた。義教はかつて反乱し征伐された大内義弘の遺児持世に相続を許し、持世もこれに応え山名氏の力を借り少弐・大友氏を倒し見事九州を平定した。
義教の次のターゲットは比叡山である。実は信長の時代まで門跡寺院というのはある種の利権団体だった。特に比叡山は非道い。政治的な事に不満があると日枝神社の神輿を担いだ僧兵が都で暴れる。広大な荘園を領し、関銭を取るための関所を幾つも持っている。これは宗教団体でなく利権団体だ。そして義教はかつて天台座主を務めた男である。内部から見ればいかに比叡山が腐敗していたのかよくわかるのだろう。比叡山が政治的不満から園城寺を焼き討ちするという事件が起こった。これに義教は園城寺を援護し近江坂本まで進出する。これに比叡山は驚き神輿を引き上げ義教は兵を引く。1434年、叡山が鎌倉公方持氏と結託し義教に対して呪詛を行っているという情報が入った。義教は叡山近辺の街道と琵琶湖上の交通を封鎖。六角・京極軍に叡山攻撃を命じる。近江にある叡山の荘園は尽く押えられ、比叡山軍も次々と打ち破られる。僧兵達は最後の手段と根本中堂に立て篭もり義教を非難する。それでも攻撃を止めない義教に屈した僧達は根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げる。
実は信長以前に比叡山を焼いたという快挙を成し遂げたのが義教だった。
義教は叡山に関する噂を語る事を禁じ、違反した行商人たちの首をはねた。
伏見宮貞成王は「万人恐怖」と日記に記す。信長の先駆者の次の標的は鎌倉府である。
2007年01月20日
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