ケン坊さんに先を越されてしまったが赤穂事件を。
所謂元禄赤穂事件とは元禄14年(1701年)江戸城松の廊下にて浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を襲撃し討ち漏らし後に切腹・改易された事件と、翌年浅野遺臣の大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り吉良を討ち果たした事件の二つを合わせて言う。
両方やると長いので松の廊下を。
浅野が吉良を襲った原因を考える。
定説というか常識では、吉良が浅野を苛め抜いたとか、吉良への進物が足りなかったとか、塩の製法と販路がどうこうとか、吉良が浅野の夫人に横恋慕したとかあるが真相は如何に。
吉良上野介義央は高家である。高家とは名門の家系(他に今川氏など)を江戸幕府が儀式や典礼の役として召抱えたもの。
忠臣蔵でもわかるように浅野は伊予吉田藩主伊達左京亮宗春と共に幕府から朝廷の勅使の接待饗応約を仰せつかっていた。この責任者が吉良であった。幕府の朝廷に対する責任者が吉良であったからこれは当然だった。
将軍綱吉は母の桂昌院を従一位に任じられるよう運動をしていて、この勅使の接待は絶対に成功させなくてはならない。
浅野がこの役を仰せつかった時、吉良は京に居たそうだが、実は浅野はこの18年前に勅使の接待饗応役を仰せつかって無事に勤め上げている。この人事は綱吉も納得の人事だっただろう。なにせ二度目だ。18年のブランクがあるからというのは言い訳にならない。その時の記録は絶対に取ってあるはずで失敗は許されないからだ。ところが畳が貼り替わっていないとか、屏風が金でなく墨絵だったとかが露呈したら吉良が怒るのは当然だろう。吉良は今回の責任者だから。
浅野は吉良に襲い掛かった時に、
「この間の遺恨おぼえたるか」
と叫んだという。上記の例では遺恨にならないし、本当にそんな事を言ったのだろうか。
吉良への進物が足りなかったというのもおかしい。元々進物はするものなのだ。それに記録はとってあるはずだから、吉良へどれだけ進物すれば良いのかもわかっているはず。足りなければ浅野が恥をかくだけだろう。塩田だとか横恋慕というのも怪しい。
実は浅野の叔父である内藤忠勝が1680年に永井尚長を乱心し増上寺で殺害している。忠勝は切腹、御家は断絶となった。吉良を襲えば浅野もそうなる事は解っていたはずなのに浅野は吉良を襲撃した。
浅野は身柄を一関藩主の田村右京大夫の屋敷に預けられたがそこで食事をし、断られたが酒とたばこを所望したという。罪の意識がある人がこんな行動をとるだろうか。
浅野は子供の頃から短気で癇癪持ちであったという。また感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病も持っていたという。
浅野が吉良を襲ったのは乱心以外にはありえないのではないか。吉良襲撃によるリスクを何も考えられなかったのでなければこんな行動はとれまい。
私の考えはこんなところだが、異説をひとつ。
吉良は朝廷への年賀遣として何度も京へ行っているがその時に後西天皇に退位を迫り実現してしまった経歴がある。後西天皇は外様大名伊達綱宗と従兄妹の間柄でこれを危険視したとか、明暦の大火等の災害も多くあり帝の不徳を責めたとか説はいろいろあるが、朝廷は吉良を憎んでいたので浅野を刺客に吉良を襲わせたという。これも面白いが現実的じゃないな。
2007年12月13日
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A・ヒトラーは睾丸が一個しかなかったってのは
有名なんかな?
生まれつきなもので、こういった人は「虚言癖・征服欲」などなどが挙げられるそうです。
この頃の日本史は、色々ありすぎて(書籍が)手出ないんですよねえ なかなか・・・興味深いのですが。
扇里さんオススメ本ありましたら、ぜひ教えてくらさい。
忠臣蔵だと井沢元彦の「忠臣蔵 元禄15年の反逆」が面白いですかね。小説というより自説の展開が良いです。私も大きく影響を受けました。