浅野長矩は前後を考えず吉良を襲ったのは間違いない。
では浅野遺臣はどうなったか。
失業したのである。
浪人というと格好は良いがようは失業者。元藩士達は食い扶持を失った。浪士の中には名を上げて再仕官したかった者もあっただろう。
大石良雄は浅野家に代々仕える国家老だった。
他の義士達はほとんどが長矩が直接召抱えた藩士達で江戸に詰めていた。ここに大石との意識の差がある。義士達の忠誠は長矩に向かっていたが、大石は赤穂浅野家に向かっていた。これは間違いない。大石は改易後長矩の弟大学を担ぎ上げての浅野家復興の運動をしていた。正直言って「馬鹿な事してくれた」と思っていただろう。
この運動も上手くいかず、浅野浪人達のコントロールも効かなくなった大石は遂に吉良を討つ事を決意する。その後はよくご存知のとおり。
大石が吉良邸を討ち入る時に門前に掲げた書状がある。
以下のサイトに現代語訳があったので転載させていただく。
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai17-Akoujikenn.html
「昨年三月、内匠頭が、伝奏御馳走の折り、刃傷に及び切腹仰せつけられ、城地は召し上げられました。家臣は、恐れ入り、早々に城地を差し出し、離散しました。内匠頭は、喧嘩のおり、同席した方が内匠頭を制止したため、吉良上野介を討ち果たすことが出来ませんでした。 内匠頭の末期の心底を思うと家来としては偲び難いものがあります。君父の仇は、ともに天を戴かずと申します。今日、上野介殿のお屋敷に推参し、亡主の意趣を継ごうと思います。私どもが死に尽くしましたら、ご見分役の方は、この書状をご覧下さい。 元禄十五年十二月
(以下47人の署名)」
なんと喧嘩両成敗とこの話は広まっているがこれを広めた張本人は大石だったのだ。以後彼等は忠義の士と相成る。
現代にも伝わる美談は浄瑠璃と歌舞伎に拠るところも多いが、最大の忠臣蔵プロデューサーは大石良雄だった。
2007年12月14日
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