キングスエンブレム3着。。。
買ったのは三連複だったので馬券は獲ったけどさ。
元寇(Wikipedia)
いわゆる文永の役。
元・高麗・女真人の混成軍役3万が壱岐に攻めてくる。
司令官は高麗人の金方慶。
松浦党の本拠地を全滅させ、壱岐守護代平景隆を自害に追い込む。
この時に民衆を殺戮し、生き残った者の手に穴を空けて革紐を通し船壁に吊るして見せしめにしたという。さらに子供男女200人を捕虜とし高麗王妃に献上したという。高麗人は元の力を背景にした加害者であるのはこの事からも間違いない。
元軍は5日後博多に現れる。幕府も壱岐の情報を掴み。御家人を大宰府に集結させて迎撃体勢をとった。
当初は「やあ!やあ!我こそは・・・」と名乗りを上げた御家人がその最中に元軍数人に囲まれるという失態はあったが、その内に集団戦術に対応。後には矢戦になる。直接的な戦法を採らなかったのは両軍が拮抗していたのだろう。
夜になり大宰府攻略を諦めた元軍は博多の町を焼き船上に撤退。明くる日も激戦が予想されたが神風が起こり元軍は海に沈んでしまった。この神風に対しては異論があるが、元・高麗軍の不還者が13500余人と言われているので、そんなに死者が多いという事は船が難破したとしか思えない。普通に考えて動員した兵の2割以上でも損害が出たらそれは大敗と考えるだろう。
運良く元軍を撤退させた。
しかし元軍の動員は少ない。元は南宋と二正面作戦を展開させて日本に兵を割けなかった。また神風の要員も大きい。それ以上に「蒙古襲来絵巻」を見ればわかるが、元軍はこの後の弘安の役でも馬を用いていない。馬を船で輸送するのは大変なのだ。元(というか騎馬民族)の主力は騎馬軍である。よく考えてみよう。西にも勢力を拡大したモンゴル軍は海を渡っていない。言わば初めての海戦だった。この事が海に囲まれた日本にどれだけ有利に働いた事か。
4年後フビライはまた使者を送ってくる。今度はどうしたか、処刑してしまったのだ。時宗という人は二度の元寇をよく指揮し迎撃したと思うが、そうも外交のセンスが無い。普通に考えて怒るだろう。どうせ返事をしないのなら使者を徹底的に監視して帰してしまえば良いではないか。
同年南宋を滅ぼした元は再び日本を襲ってくる。
2008年01月26日
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