2008年04月21日

蘇我ブログとして

何度か似たような事を書いていますが。

以下は私の妄想です。
「日本書紀」の編纂が終わった時の権力者は持統天皇と藤原不比等。この二人に気をつかっていない筈がない。この二人は父親が仲良し。天智天皇(中大兄皇子)と藤原(中臣)鎌足。そして共通する敵があった、蘇我入鹿。

この二人の子は自身の正当性の為に蘇我氏のことを悪く書く必要があった。本来なら武内宿禰の子孫と書くところを、先祖をぼかして渡来系の名前に変えたりした。だいたい入鹿の本当の名前は鞍作というのに入鹿と変えている。父の蝦夷にしてもそうだろう。
一番厄介な相手が蝦夷の父の馬子だろう。律令制を進めて様々な改革をした。これをどうしたか聖徳太子(厩戸皇子)の政治にしてしまった。太子は実在しただろうと思う。蘇我の血を引く皇族として馬子を助け律令を進めた一人だろう。
中臣鎌足は律令を確立されては困る立場にいた。何故なら彼は百済から人質として送られ後に帰化した豊璋その人だから。
百済から人質として来日した後に百済は新羅に滅ぼされる。豊璋は仲の良かった中大兄皇子に頼み込み日本の軍事力を背景に朝鮮に出兵してもらう。ところが新羅と唐の連合軍に敗れ百済は完全に滅んでしまった。行き場の無くなった豊璋は中臣鎌足と名を変え日本に亡命する。この日本で新参の豊璋が力を付ける為には律令の導入は避けたかった。
故に蘇我入鹿を暗殺。早期導入を阻止した。残る敵は蘇我の血を引く大海人皇子(天武天皇)。大海人皇子は中大兄皇子の弟とされているが実は違う。母は同じ皇極天皇だが本当の父親は蘇我系皇族の高向王。当然彼は蘇我の意志を受け継ぎ中大兄皇子と鎌足の政策に反対する。策士鎌足が生きていればよかったが彼は中大兄皇子より早く死んでしまう。邪魔者のいなくなった大海人皇子は天智天皇を暗殺。息子の大友皇子も壬申の乱で滅ぼす。即位し天武天皇となって念願の律令制度を導入する。
持統天皇も不比等も天武天皇の政策には反対だった。そこで二人で政治を掌握する方法を考えた。天武の皇子が大勢いる中で持統は即位する。自分の子孫、天智天皇の血を引く皇子を即位させる為に。不比等は自分の政策を支持する天皇を作る為に。遂には藤原の血を引く天皇まで作った。そして歴史を書き換えた。
今日はこんなところで。
posted by 入船亭扇里 at 22:56| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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