一日寝てしまった。私の身体は眠かったのかもしれない。
前に考察するといって全くしていなかった天武天皇について。
ここのところ蘇我ブームだったからなぁ。
天武天皇と天智天皇が同父母の兄弟ではなかったという説は意外と有力です。
何故この説が語られるようになったのかというと年齢矛盾です。
「日本書紀」によると天智天皇の生年は626年で天武天皇は不明。公の史書にしかも日本書紀の後半は天武一代記といってもよい内容なのに生年が書いていない、これは怪しいと。「一代要記」「本朝皇胤紹運録」で没年齢から逆算すると天武の生年は622となり兄弟の順が逆転すると言われた。しかし天智の生年が「一代要記」では619年「本朝皇胤紹運録」では614年で実は逆転していない。ただ天武の出自が怪しいのは間違いない。皇太弟として大海人皇子が「日本書紀」に初登場するのは43歳の時、これは遅すぎる。中大兄皇子の同父母弟なら然るべき地位にありそうなものだが乙巳の変の頃もその後もなかなか登場しない。
また天智天皇の娘を4人も娶っており、いくら近親婚が多かった時代とはいえこれはおかしいと。
では同父母弟ではなかったら誰なのか。
容疑者その一は漢皇子。蘇我系皇族で用明天皇の孫とされる高向王と斉明女帝との間の子で、斉明女帝はこの漢皇子を産んだ後に高向王と離別し舒明天皇に嫁ぎ天智天皇を産んでいます。この漢皇子、そして高向王というのは皇族なのに史書にほとんどといって出てこない謎の人物です。この説が確かなら天武は兄という事になる。
容疑者その二は古人大兄皇子。父は舒明天皇で母は蘇我馬子の娘という天智の異母兄。蘇我氏の世なら間違いなく登極した人物だ。乙巳の変の後吉野に隠棲していたが天智の手によって殺害されたという。もし殺害されていなかったら・・・場所も吉野だし怪しい。
この二人がとにかく怪しいのだけれども、中には兄弟ですらないというのもある。高句麗の高官蓋蘇文だとか、新羅の王族金多遂というもう外国人であったりする。
中には漢皇子=古人大兄皇子という説もあり実はこれが妥当じゃないかと思っていたりもします。
2007年02月14日
2007年02月11日
20070211の予想
今週は長野新幹線から。
ダイヤモンドステークス
◎チェストウイング
節目割りリーマン。前走は前を追いかける厳しい展開。スペシャルウィークの東京替わりで。
きさらぎ賞
◎アサクサキングス
○ナムラマース
3強レース質。経験の多い2頭で。
ダイヤモンドステークス
◎チェストウイング
節目割りリーマン。前走は前を追いかける厳しい展開。スペシャルウィークの東京替わりで。
きさらぎ賞
◎アサクサキングス
○ナムラマース
3強レース質。経験の多い2頭で。
2007年02月06日
昨日はまだなんとかなったのに
エレぇ事になってしまいました。
声が出ません。原因は解っています、花粉症です。
鼻が詰まって喉をやられました。
薬を飲んで鼻は通るようになり喉の痛みも無いのですが、声が出ません。
明日から寄席なのになぁ。
空気が乾燥している上にお天気が良くて暖かいからこんな事になるのですね。
それより気をつけろよって事ですけど。
蘇我番組の再放送を見ながら書いているのですが面白いですね。
やっぱり入鹿は濡れ衣を着せられたのだな、と。
柳沢吉保とか田沼意次も評価が低い。歴史の悪役を見直すのにも良い機会だなと思います。
声が出ません。原因は解っています、花粉症です。
鼻が詰まって喉をやられました。
薬を飲んで鼻は通るようになり喉の痛みも無いのですが、声が出ません。
明日から寄席なのになぁ。
空気が乾燥している上にお天気が良くて暖かいからこんな事になるのですね。
それより気をつけろよって事ですけど。
蘇我番組の再放送を見ながら書いているのですが面白いですね。
やっぱり入鹿は濡れ衣を着せられたのだな、と。
柳沢吉保とか田沼意次も評価が低い。歴史の悪役を見直すのにも良い機会だなと思います。
2007年02月04日
祟り神は守り神
なんとなく花粉症と判明する。(根拠は薄弱)
喉がやられ、今日はくしゃみを連発。喉飴は必須です。
母に石川町の豆腐料理屋でご馳走になってきました。そんなに値は張らないけど美味しい食事に私は満足です。
馬券もようやっと当たったし良い一日だなー。(体調が良ければ尚良い)
『ここまで解けた!「古代史」残された謎』関裕二/PHP研究所
コンビニで500円で売ってました。お手軽過ぎです。内容はこの前のとだいたい同じなんですけど、年代順になっているのとページ数の関係かかなり簡略に書いてあってわかりやすい。
実際に大和朝廷の成立なんて事は「日本書紀」くらいしか当時の資料が無い。これが大本営発表であるとか神話が多いからといって無視し続けたのでは本当の歴史はわからないわけで、この裏を読む作業と遺跡の発掘で謎の4世紀を知らなければならないのです。蘇我氏についてこれだけ持ち上げられている今は大チャンスですね。
しかし恐ろしいのは古代日本列島原住民のパワーだろう。大陸・半島から伝わった文化を吸収し、それ以前からあった土着の文化と見事融合し完全な独自の文化を作り上げた。銅鐸一つ見てもそれがわかる。
あとね、神社に祀られている人はみんな祟った人ですよ。
喉がやられ、今日はくしゃみを連発。喉飴は必須です。
母に石川町の豆腐料理屋でご馳走になってきました。そんなに値は張らないけど美味しい食事に私は満足です。
馬券もようやっと当たったし良い一日だなー。(体調が良ければ尚良い)
『ここまで解けた!「古代史」残された謎』関裕二/PHP研究所
コンビニで500円で売ってました。お手軽過ぎです。内容はこの前のとだいたい同じなんですけど、年代順になっているのとページ数の関係かかなり簡略に書いてあってわかりやすい。
実際に大和朝廷の成立なんて事は「日本書紀」くらいしか当時の資料が無い。これが大本営発表であるとか神話が多いからといって無視し続けたのでは本当の歴史はわからないわけで、この裏を読む作業と遺跡の発掘で謎の4世紀を知らなければならないのです。蘇我氏についてこれだけ持ち上げられている今は大チャンスですね。
しかし恐ろしいのは古代日本列島原住民のパワーだろう。大陸・半島から伝わった文化を吸収し、それ以前からあった土着の文化と見事融合し完全な独自の文化を作り上げた。銅鐸一つ見てもそれがわかる。
あとね、神社に祀られている人はみんな祟った人ですよ。
2007年02月03日
寝て起きて本読んでまた寝てこれから寝る
起きたら声が出ない。喉をやられたのは間違いない。なので薬を飲んで寝る事に。一日中寝てました。研精会を手伝いに行こうと思ったのだけれどもパスする。
蘇我入鹿邸発掘の件をテレビでやっていました。終りの方をちょこっとしか見ていないのですが、まぁ今までの仮説に間違いはなさそうだ。しかし、蘇我の話を記事にしていたらこの状勢。なんてタイムリー!
『「時代」を旅する』杉本苑子・永井路子/文春文庫
古本屋で気楽そうなので買った対談です。この両巨頭は面白い。いや本当に何も恐くないというか死ぬのを忘れた(褒め言葉です)というか。
やはり女性の事が多いですね。徳川家康の正妻築山殿とかお市の方とか。当時の政略結婚はセックスを伴った外交官でありスパイであると。この頃までは実家の力とか財産なんかがあって女性の力が極めて強かったとか、あまり気にしていなかったけど再認識です。
卑弥呼の時代から江戸時代の丸子の宿のととろ汁まで料理を再現しているのも面白い。味は古代の方が良いそうです。
蘇我入鹿邸発掘の件をテレビでやっていました。終りの方をちょこっとしか見ていないのですが、まぁ今までの仮説に間違いはなさそうだ。しかし、蘇我の話を記事にしていたらこの状勢。なんてタイムリー!
『「時代」を旅する』杉本苑子・永井路子/文春文庫
古本屋で気楽そうなので買った対談です。この両巨頭は面白い。いや本当に何も恐くないというか死ぬのを忘れた(褒め言葉です)というか。
やはり女性の事が多いですね。徳川家康の正妻築山殿とかお市の方とか。当時の政略結婚はセックスを伴った外交官でありスパイであると。この頃までは実家の力とか財産なんかがあって女性の力が極めて強かったとか、あまり気にしていなかったけど再認識です。
卑弥呼の時代から江戸時代の丸子の宿のととろ汁まで料理を再現しているのも面白い。味は古代の方が良いそうです。
2007年02月02日
手洗いうがいをしましょう
今日から末広亭昼の部で師匠がトリです。私の出番は後半の五日間、なので今日は付き人に徹します。
師匠はこの忙しい最中風邪っぴきです。一度風邪をひくと長いのに薬を飲まないからいつまでたってもだるそうです。暮れから正月は暖かくしてください。
池袋へ行くと新二ツ目の駒次・さん若の二人が。持ち合わせなかったよ、今度届けます。ロビーに何故か居た朝也さんと遊ぶ私。このチョーヤめは朝から映画を観てからお門を通りかかって来たとのこと。優雅だな。
師匠はこの時期に「さんま火事」、って時期外れだなと思っていましたが、思い出してみれば3月の黒門亭で私もこの噺をやります。よっぽど時期外れです。
それから新宿へ行くと新二ツ目花ん謝が!初日コンプリートです。その後「穴泥」で風邪をひいていても体力のあるところを見せつけられ、ラーメンとチャーハンを食べて帰宅。
気のせいか喉がイガイガする・・・やられたか!
師匠はこの忙しい最中風邪っぴきです。一度風邪をひくと長いのに薬を飲まないからいつまでたってもだるそうです。暮れから正月は暖かくしてください。
池袋へ行くと新二ツ目の駒次・さん若の二人が。持ち合わせなかったよ、今度届けます。ロビーに何故か居た朝也さんと遊ぶ私。このチョーヤめは朝から映画を観てからお門を通りかかって来たとのこと。優雅だな。
師匠はこの時期に「さんま火事」、って時期外れだなと思っていましたが、思い出してみれば3月の黒門亭で私もこの噺をやります。よっぽど時期外れです。
それから新宿へ行くと新二ツ目花ん謝が!初日コンプリートです。その後「穴泥」で風邪をひいていても体力のあるところを見せつけられ、ラーメンとチャーハンを食べて帰宅。
気のせいか喉がイガイガする・・・やられたか!
2007年02月01日
まぁ読むのは歴史の本なんですが
「古代史の秘密を握る人たち」関裕二/PHP文庫
この先生の視点は面白い。古代史というか「日本書紀」「古事記」の裏を読むというか。
聖武天皇とか称徳女帝の話とかはとても面白い。
藤原の子として生まれながらも藤原氏に対抗しようと色んな手を考える。長屋王の祟りの後藤原氏の勢力は一時的に落ちてますしね。
時代をさらに遡って尾張・物部・蘇我といった豪族達の動きも見逃せない。やはり日本の基礎はこういった豪族達が力を合わせて出来ていったのだと思う。古代の秘密を握るのはやはりこの辺だな。
そしてやはり古代の最大の謎は天武天皇の正体でしょう。
蘇我系皇族の漢皇子がやはり有力になってきます。というか中大兄皇子と大海人皇子が同父の兄弟でなかったとすると候補者は他にはいない訳で。
壬申の乱以降天武系の天皇が続くのだけれども持統天皇から女系を辿るとこれが天智系の天皇に摩り替わってしまっているのは不思議だ。そしてその背後には藤原不比等がいる。裏でコントロールをしていたのはやはり藤原氏なのだと思う。言う事を聞かなくなってしまった聖武・称徳を経て女系天智系から男系天智系に代わっていく。
この辺を今度はゆっくり考察してみたい。
この先生の視点は面白い。古代史というか「日本書紀」「古事記」の裏を読むというか。
聖武天皇とか称徳女帝の話とかはとても面白い。
藤原の子として生まれながらも藤原氏に対抗しようと色んな手を考える。長屋王の祟りの後藤原氏の勢力は一時的に落ちてますしね。
時代をさらに遡って尾張・物部・蘇我といった豪族達の動きも見逃せない。やはり日本の基礎はこういった豪族達が力を合わせて出来ていったのだと思う。古代の秘密を握るのはやはりこの辺だな。
そしてやはり古代の最大の謎は天武天皇の正体でしょう。
蘇我系皇族の漢皇子がやはり有力になってきます。というか中大兄皇子と大海人皇子が同父の兄弟でなかったとすると候補者は他にはいない訳で。
壬申の乱以降天武系の天皇が続くのだけれども持統天皇から女系を辿るとこれが天智系の天皇に摩り替わってしまっているのは不思議だ。そしてその背後には藤原不比等がいる。裏でコントロールをしていたのはやはり藤原氏なのだと思う。言う事を聞かなくなってしまった聖武・称徳を経て女系天智系から男系天智系に代わっていく。
この辺を今度はゆっくり考察してみたい。
2007年01月29日
眠いから早いよ
先だって某所で足裏診断をしていまして、無料で見てくれるそうなのでホイホイと機械に乗ってみました。
結果はあまりよろしくない。
まぁ私は歩き方変ですし、膝も曲がってますし、背骨も歪んで腰への影響たるや酷いものです。一時眠れなくなるほど腰が痛く整骨院へ通い針を毎日打たれていました。
で、その足裏診断屋さんの正体は靴の中敷き屋さんだったのですが、とりあえず勧められた中敷きを靴の中に入れてみました。するとどうでしょう、膝が伸び歩き方も矯正されているではありませんか。腰も楽です。ほんの2、3分しか使っていないのに私はこの中敷きに夢中です。
そしてお値段(これ重要)を聞いてみると、オーダーメイドで5万弱、既製品でも2万弱と言うではありませんか。完全に尻込みです。
とても買えないので泣く泣くその場を後にしましたが私の心はもう中敷き様の虜。作れば一生物かもしれないけどそんなに払えないしなぁ、と悩みながらも他の用事で東急ハンズへ。
ちょっと見てみるつもりで中敷きコーナーを覗くと同じ機能を謳っている中敷きが安価であるではないですか。試して履いてみると、さすがにこの間ほどミラクルではありませんがなんとなく近いです。で、無いよりはマシと買ってきたのですが、今度は靴が限界に近づいている事に気がつきました。
という事で今欲しいものはビルケンシュトック様です。
結果はあまりよろしくない。
まぁ私は歩き方変ですし、膝も曲がってますし、背骨も歪んで腰への影響たるや酷いものです。一時眠れなくなるほど腰が痛く整骨院へ通い針を毎日打たれていました。
で、その足裏診断屋さんの正体は靴の中敷き屋さんだったのですが、とりあえず勧められた中敷きを靴の中に入れてみました。するとどうでしょう、膝が伸び歩き方も矯正されているではありませんか。腰も楽です。ほんの2、3分しか使っていないのに私はこの中敷きに夢中です。
そしてお値段(これ重要)を聞いてみると、オーダーメイドで5万弱、既製品でも2万弱と言うではありませんか。完全に尻込みです。
とても買えないので泣く泣くその場を後にしましたが私の心はもう中敷き様の虜。作れば一生物かもしれないけどそんなに払えないしなぁ、と悩みながらも他の用事で東急ハンズへ。
ちょっと見てみるつもりで中敷きコーナーを覗くと同じ機能を謳っている中敷きが安価であるではないですか。試して履いてみると、さすがにこの間ほどミラクルではありませんがなんとなく近いです。で、無いよりはマシと買ってきたのですが、今度は靴が限界に近づいている事に気がつきました。
という事で今欲しいものはビルケンシュトック様です。
コイウタは輸送が駄目なのか
競馬の予想絶不調ですね、最近全然当たりません。まぁレースもほとんど観ていないし、馬券もほとんど買っていないのですが。
平日に仕事がゴチャマンとあって土日の昼間は競馬やってたいくらいです。だから平日の仕事ください!いやほんと。
月例俳句会。去年まで小駒さんと勉強会をやっていた場所が会場。芸人の中でここの勝手は私が一番よく知っている。
今月の季題は、
「初電話」
「福寿草」
「冬の蝶」
お互いの息災を知り初電話
腰下ろしふと目の前の福寿草
冬の蝶お元気ですかと友訪ね
あんまり上手くいかないな。挑戦者はコメント欄に。
その後は介護の国家試験を受けに上京してきた妹とご飯を食べました。私と同じでトルティーヤチップスが大好きみたいです。
平日に仕事がゴチャマンとあって土日の昼間は競馬やってたいくらいです。だから平日の仕事ください!いやほんと。
月例俳句会。去年まで小駒さんと勉強会をやっていた場所が会場。芸人の中でここの勝手は私が一番よく知っている。
今月の季題は、
「初電話」
「福寿草」
「冬の蝶」
お互いの息災を知り初電話
腰下ろしふと目の前の福寿草
冬の蝶お元気ですかと友訪ね
あんまり上手くいかないな。挑戦者はコメント欄に。
その後は介護の国家試験を受けに上京してきた妹とご飯を食べました。私と同じでトルティーヤチップスが大好きみたいです。
2007年01月27日
という訳で実家から
というか祖父宅から更新。
久しぶりに大船近辺を散策してきました。昔に比べると随分違います。私が高校生だった当時、ぱっとしなかった駅ビルはとってもおしゃれになり、もはや買い物はここで済んでしまいそう。道路も広くなって…昔は後からバスが来る度に震えたものだよ。
あと大人になったせいか町が狭く感じました。子供の世界というのは狭いものですね。
遠くから観音様も眺めたし満足。明日は地元のちびっ子に落語を教えます。
久しぶりに大船近辺を散策してきました。昔に比べると随分違います。私が高校生だった当時、ぱっとしなかった駅ビルはとってもおしゃれになり、もはや買い物はここで済んでしまいそう。道路も広くなって…昔は後からバスが来る度に震えたものだよ。
あと大人になったせいか町が狭く感じました。子供の世界というのは狭いものですね。
遠くから観音様も眺めたし満足。明日は地元のちびっ子に落語を教えます。
2007年01月26日
だから歴史と競馬のブログです
珍しく一日何もせずウイニングポスト(2周目)なんぞをやっていたのです。
1周目のままやり続けても良かったのですが色々と系統を確立したくなったので。
いつも確立させたいブラッシンググルーム系は今回も失敗。しかし始めからレッドゴット系になってないのもな。ナスルーラ系じゃ範囲広すぎです。
今回の成功はテスコボーイ系、カロ系、そしてマルゼンスキー系。
今後の確実にできそうなのはヌレイエフ系、ミスターシビー系、サクラユタカオー系、トニービン系、ブライアンズタイム系、サンデーサイレンス系。
その先に狙うのはサクラバクシンオー系、フサイチコンコルド系、スペシャルウィーク系、エルコンドルパサー系。
しかしまぁミスターシビーの強い産駒を作るのは良いのだが菊花賞でナリタブライアンを差しきる子ができるとは思わなかった。これを所有していない事にも驚いた。
実際競馬やるのには役に立たないがなんとなくFECには役立つような気がする。スカウトもしなくては。土日にレースを見る余裕が無いのは痛い。
明日は実家に帰ります。
1周目のままやり続けても良かったのですが色々と系統を確立したくなったので。
いつも確立させたいブラッシンググルーム系は今回も失敗。しかし始めからレッドゴット系になってないのもな。ナスルーラ系じゃ範囲広すぎです。
今回の成功はテスコボーイ系、カロ系、そしてマルゼンスキー系。
今後の確実にできそうなのはヌレイエフ系、ミスターシビー系、サクラユタカオー系、トニービン系、ブライアンズタイム系、サンデーサイレンス系。
その先に狙うのはサクラバクシンオー系、フサイチコンコルド系、スペシャルウィーク系、エルコンドルパサー系。
しかしまぁミスターシビーの強い産駒を作るのは良いのだが菊花賞でナリタブライアンを差しきる子ができるとは思わなかった。これを所有していない事にも驚いた。
実際競馬やるのには役に立たないがなんとなくFECには役立つような気がする。スカウトもしなくては。土日にレースを見る余裕が無いのは痛い。
明日は実家に帰ります。
2007年01月25日
歴史ノート ちょっとまとめ
朝師匠の家へ行ったらメールに夢中。75歳にしてこの行動は凄い。
だいぶ長い文章を打てるようになったみたいです。
お終いと言ったけど、簡単にまとめてみます。
・後醍醐天皇と足利義満を見ていくと天皇というものがどういうものなのかが見えてくる。
政治家としてかたや最低、かたや最高。ところが義満は天皇にはなれなかった。我が国は血統第一主義なのである。源氏も平氏も元をたどれば天皇になるわけで、日本の血統の最高峰に常に天皇がいた。それは今の政治家を見ても言える事だ。
・足利尊氏と直義の争いはこの時代共通の政治課題だった。
南朝と北朝、尊氏と直義、将軍と鎌倉府、この先の西軍と東軍。全て与党と野党が同じくらい強い。現代なら2大政党は結構な事かもしれないが、当時は許される事ではなかった。敵対する勢力が南朝に付けば自分は北朝に付く、といった事が室町時代には常に続いていたのである。義教が持氏の子を斬らせたのも禍根を残さない為であり、家康が秀頼の子を斬ったのも同じ事である。早めに敵対する勢力の芽を摘んでおかないと戦乱は続くのだから。
・義満・義教は平和の創造を狙った。
上と被るのだけれども将軍に絶対の権力があり、野党の存在が無ければ世の中は平和になり繁栄する。守護大名達の力を押え、将軍の元に中央集権を確立した二人はまさに平和の創造者といえる。問題は二人共後継者に恵まれなかった事と義教があまりにもあっけなく殺された事だろう。源頼朝、北条泰時、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった武家政治の創始者や戦国の雄も評価すべきところはそこだろうと思う。特に戦国の三人は義教の路線を踏襲していると思う。
・義教が比叡山を攻撃したのは革命に等しい。
信長もそうなのだけど、我が国の政教分離の基礎を作ったのはこの事件が始まりだろう。特に義教は天台座主を務めていたほどなので叡山の内情を良く解っていたのだろう。比叡山延暦寺は完全な利権団体であった、広大な荘園を持ち、政治活動をし、兵力もある。関銭を取る為の関所もたくさんある。現代になって寺院が大人しいのはこの二人と家康が作った檀家制度のおかげだろう。
まぁそんなところで。
だいぶ長い文章を打てるようになったみたいです。
お終いと言ったけど、簡単にまとめてみます。
・後醍醐天皇と足利義満を見ていくと天皇というものがどういうものなのかが見えてくる。
政治家としてかたや最低、かたや最高。ところが義満は天皇にはなれなかった。我が国は血統第一主義なのである。源氏も平氏も元をたどれば天皇になるわけで、日本の血統の最高峰に常に天皇がいた。それは今の政治家を見ても言える事だ。
・足利尊氏と直義の争いはこの時代共通の政治課題だった。
南朝と北朝、尊氏と直義、将軍と鎌倉府、この先の西軍と東軍。全て与党と野党が同じくらい強い。現代なら2大政党は結構な事かもしれないが、当時は許される事ではなかった。敵対する勢力が南朝に付けば自分は北朝に付く、といった事が室町時代には常に続いていたのである。義教が持氏の子を斬らせたのも禍根を残さない為であり、家康が秀頼の子を斬ったのも同じ事である。早めに敵対する勢力の芽を摘んでおかないと戦乱は続くのだから。
・義満・義教は平和の創造を狙った。
上と被るのだけれども将軍に絶対の権力があり、野党の存在が無ければ世の中は平和になり繁栄する。守護大名達の力を押え、将軍の元に中央集権を確立した二人はまさに平和の創造者といえる。問題は二人共後継者に恵まれなかった事と義教があまりにもあっけなく殺された事だろう。源頼朝、北条泰時、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった武家政治の創始者や戦国の雄も評価すべきところはそこだろうと思う。特に戦国の三人は義教の路線を踏襲していると思う。
・義教が比叡山を攻撃したのは革命に等しい。
信長もそうなのだけど、我が国の政教分離の基礎を作ったのはこの事件が始まりだろう。特に義教は天台座主を務めていたほどなので叡山の内情を良く解っていたのだろう。比叡山延暦寺は完全な利権団体であった、広大な荘園を持ち、政治活動をし、兵力もある。関銭を取る為の関所もたくさんある。現代になって寺院が大人しいのはこの二人と家康が作った檀家制度のおかげだろう。
まぁそんなところで。
2007年01月24日
歴史ノート 戦国時代の突入へ
レディオ湘南のはっとさんの番組にきたがわさんがゲスト出演していたのでweb放送で視聴したのですが、私のPCは音量のところが壊れていて勝手に下に下がっていきます。あっという間にフェードアウトされるのでマウスで音量のバーを一時間いじくり続けながら楽しんでいました。右腕はパンパンですが。
足利義教の次の相手は鎌倉公方足利持氏。
元々持氏の方が義教に反感を持っていた。中央で「正長」から「永享」に年号を変えたのに鎌倉では「正長」を使い続けた。
持氏は1434年に鶴岡八幡宮に血書の願文を納めたがそこには「呪詛の怨敵」と記されていた。
1438年持氏は嫡子賢王丸の元服を鶴岡八幡宮で挙げたが、本来なら義教の「教」の字を貰う慣例を無視して「義久」と名乗らせた。
この間、二人の間を必死に取り成していたのは関東管領の上杉憲実で、関東管領は鎌倉府の役職でありながら幕府から任命される職でもあり奔走していたが、持氏が憲実を討つという噂が流れ上野国に脱出する。
持氏は好機と憲実を討つ為に兵を挙げるが、義教は今川氏や小笠原氏に持氏包囲網を作らせ後花園天皇に持氏追討の綸旨を出させた。本来なら鎌倉を守るはずの三浦氏や二階堂氏が次々と持氏を離れ、逆に鎌倉を占拠し幕府に恭順してしまう。持氏は武力抵抗を諦め寺に入り剃髪する。義教はこれでも許さず憲実に持氏を討つよう命令を出し続ける。憲実は助命嘆願を繰り返すが抵抗しきれなくなり、ついに配下に持氏の居る永安寺を襲わせ、持氏は自刃。義久も他の寺で自害する。
ところが持氏の子安王と春王と幼い永寿王は脱出。翌年常陸・下総の結城氏朝がこの安王と春王を奉じ反乱を起す。幕府に従う事を潔しとしない関東武士を巻き込む大合戦となったが、翌年兵糧攻めにより下総結城城は陥落。氏朝は切腹し安王、春王は斬られた。
ついに関東までも手中に収めた義教。九州、比叡山、鎌倉と三つに分けたが時期が重なるところも多い。その間にも守護大名の相続に積極的に介入し自らの息のかかった者に相続させ中央集権を確立してしまう。これは皇位簒奪を目指した義満にもできなかった事だ。
しかしやり過ぎが良くなかったのかもしれない。義教はその直後に赤松邸に招かれる。その酒宴の最中に義教により隠居させられていた赤松満祐の計画により赤松の武者数十人に乱入され暗殺されてしまう。抵抗する間も無いほどあっけなく殺されてしまい、伏見宮貞成王は「自業自得」「将軍犬死」と日記に残す。(よほど恨んでいたのだろう)
これ以降将軍の権力はどんどん低下していく。
義教の治世がもう少し長く続き将軍の地位と権力が保たれるシステムを築く事ができたら決して戦国時代には突入するなんて事は無かっただろう。そういう考えでは応仁の乱を引き起こしたのは赤松満祐なのである。
後醍醐天皇から引っ張ったこのシリーズはとりあえずここでお終い。お付き合いくださりありがとうございました。改めて勉強になりました。
足利義教の次の相手は鎌倉公方足利持氏。
元々持氏の方が義教に反感を持っていた。中央で「正長」から「永享」に年号を変えたのに鎌倉では「正長」を使い続けた。
持氏は1434年に鶴岡八幡宮に血書の願文を納めたがそこには「呪詛の怨敵」と記されていた。
1438年持氏は嫡子賢王丸の元服を鶴岡八幡宮で挙げたが、本来なら義教の「教」の字を貰う慣例を無視して「義久」と名乗らせた。
この間、二人の間を必死に取り成していたのは関東管領の上杉憲実で、関東管領は鎌倉府の役職でありながら幕府から任命される職でもあり奔走していたが、持氏が憲実を討つという噂が流れ上野国に脱出する。
持氏は好機と憲実を討つ為に兵を挙げるが、義教は今川氏や小笠原氏に持氏包囲網を作らせ後花園天皇に持氏追討の綸旨を出させた。本来なら鎌倉を守るはずの三浦氏や二階堂氏が次々と持氏を離れ、逆に鎌倉を占拠し幕府に恭順してしまう。持氏は武力抵抗を諦め寺に入り剃髪する。義教はこれでも許さず憲実に持氏を討つよう命令を出し続ける。憲実は助命嘆願を繰り返すが抵抗しきれなくなり、ついに配下に持氏の居る永安寺を襲わせ、持氏は自刃。義久も他の寺で自害する。
ところが持氏の子安王と春王と幼い永寿王は脱出。翌年常陸・下総の結城氏朝がこの安王と春王を奉じ反乱を起す。幕府に従う事を潔しとしない関東武士を巻き込む大合戦となったが、翌年兵糧攻めにより下総結城城は陥落。氏朝は切腹し安王、春王は斬られた。
ついに関東までも手中に収めた義教。九州、比叡山、鎌倉と三つに分けたが時期が重なるところも多い。その間にも守護大名の相続に積極的に介入し自らの息のかかった者に相続させ中央集権を確立してしまう。これは皇位簒奪を目指した義満にもできなかった事だ。
しかしやり過ぎが良くなかったのかもしれない。義教はその直後に赤松邸に招かれる。その酒宴の最中に義教により隠居させられていた赤松満祐の計画により赤松の武者数十人に乱入され暗殺されてしまう。抵抗する間も無いほどあっけなく殺されてしまい、伏見宮貞成王は「自業自得」「将軍犬死」と日記に残す。(よほど恨んでいたのだろう)
これ以降将軍の権力はどんどん低下していく。
義教の治世がもう少し長く続き将軍の地位と権力が保たれるシステムを築く事ができたら決して戦国時代には突入するなんて事は無かっただろう。そういう考えでは応仁の乱を引き起こしたのは赤松満祐なのである。
後醍醐天皇から引っ張ったこのシリーズはとりあえずここでお終い。お付き合いくださりありがとうございました。改めて勉強になりました。
2007年01月23日
真っ直ぐ帰らない人
帰り踊り子号を横浜で降りて、野暮用を済ませてからサムズアップに行きました。
土産どっさり新年会
濱ロックというか今は土産山に関わらせていただいてから随分経つ。アウェーの刺激というかパワーをいつも貰っている気がします。
遠藤コージさんは本当に牡だな、と思う。
早健さんは本当に優しい森の精みたいだな、と思う。
内田マナベさんは本当に旅人のようだな、と思う。
ビトさんは本当に何処の民族なのかわからないな、と思う。
本当の帰り道は終電です。
土産どっさり新年会
濱ロックというか今は土産山に関わらせていただいてから随分経つ。アウェーの刺激というかパワーをいつも貰っている気がします。
遠藤コージさんは本当に牡だな、と思う。
早健さんは本当に優しい森の精みたいだな、と思う。
内田マナベさんは本当に旅人のようだな、と思う。
ビトさんは本当に何処の民族なのかわからないな、と思う。
本当の帰り道は終電です。
2007年01月20日
歴史ノート 恐怖の魔王
まぁこうやって落語と関係なくただ歴史の話を書いているのも楽しいものです。アクセスは落ちてますが(笑)
四代義持は息子の義量に将軍職を譲りますが、義量は十八歳で夭折。しばらく将軍不在という事になりました。義持は後継者を決めず死去します。その時に「たとえ余が後継者を決めても、大名達がこれを支持しなければ意味が無い」というような事を言っています。つまりは義満の時にあれほど強かった将軍の力も地に落ちていたという事です。
悩んだ大名達はなんとくじ引きで後継者を決めます。石清水八幡宮行われたそのくじの結果は「青蓮院 義円」後の義教でした。
足利義教Wikipedia
他所から見れば「くじに当たった幸運な奴」でしょうが当人は違います。「私は神に選ばれた。私の意思は神の意志である」です。
同じ年に正長の土一揆が起こり、鎌倉府は強大な力を持っていて、九州は再び混乱に陥ってた。それもこれも将軍の力が弱く統制できないからで、義教はこれを復権すべく将軍の近衛軍とも言える奉公衆を強化します。
そして九州の統一を目指す。義満の時代に九州探題として派遣された今川貞世が九州の内八カ国の守護となってしまい、義満が慌ててこれを解雇したため、大友・大内・少弐の三竦み状態になっていた。義教はかつて反乱し征伐された大内義弘の遺児持世に相続を許し、持世もこれに応え山名氏の力を借り少弐・大友氏を倒し見事九州を平定した。
義教の次のターゲットは比叡山である。実は信長の時代まで門跡寺院というのはある種の利権団体だった。特に比叡山は非道い。政治的な事に不満があると日枝神社の神輿を担いだ僧兵が都で暴れる。広大な荘園を領し、関銭を取るための関所を幾つも持っている。これは宗教団体でなく利権団体だ。そして義教はかつて天台座主を務めた男である。内部から見ればいかに比叡山が腐敗していたのかよくわかるのだろう。比叡山が政治的不満から園城寺を焼き討ちするという事件が起こった。これに義教は園城寺を援護し近江坂本まで進出する。これに比叡山は驚き神輿を引き上げ義教は兵を引く。1434年、叡山が鎌倉公方持氏と結託し義教に対して呪詛を行っているという情報が入った。義教は叡山近辺の街道と琵琶湖上の交通を封鎖。六角・京極軍に叡山攻撃を命じる。近江にある叡山の荘園は尽く押えられ、比叡山軍も次々と打ち破られる。僧兵達は最後の手段と根本中堂に立て篭もり義教を非難する。それでも攻撃を止めない義教に屈した僧達は根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げる。
実は信長以前に比叡山を焼いたという快挙を成し遂げたのが義教だった。
義教は叡山に関する噂を語る事を禁じ、違反した行商人たちの首をはねた。
伏見宮貞成王は「万人恐怖」と日記に記す。信長の先駆者の次の標的は鎌倉府である。
四代義持は息子の義量に将軍職を譲りますが、義量は十八歳で夭折。しばらく将軍不在という事になりました。義持は後継者を決めず死去します。その時に「たとえ余が後継者を決めても、大名達がこれを支持しなければ意味が無い」というような事を言っています。つまりは義満の時にあれほど強かった将軍の力も地に落ちていたという事です。
悩んだ大名達はなんとくじ引きで後継者を決めます。石清水八幡宮行われたそのくじの結果は「青蓮院 義円」後の義教でした。
足利義教Wikipedia
他所から見れば「くじに当たった幸運な奴」でしょうが当人は違います。「私は神に選ばれた。私の意思は神の意志である」です。
同じ年に正長の土一揆が起こり、鎌倉府は強大な力を持っていて、九州は再び混乱に陥ってた。それもこれも将軍の力が弱く統制できないからで、義教はこれを復権すべく将軍の近衛軍とも言える奉公衆を強化します。
そして九州の統一を目指す。義満の時代に九州探題として派遣された今川貞世が九州の内八カ国の守護となってしまい、義満が慌ててこれを解雇したため、大友・大内・少弐の三竦み状態になっていた。義教はかつて反乱し征伐された大内義弘の遺児持世に相続を許し、持世もこれに応え山名氏の力を借り少弐・大友氏を倒し見事九州を平定した。
義教の次のターゲットは比叡山である。実は信長の時代まで門跡寺院というのはある種の利権団体だった。特に比叡山は非道い。政治的な事に不満があると日枝神社の神輿を担いだ僧兵が都で暴れる。広大な荘園を領し、関銭を取るための関所を幾つも持っている。これは宗教団体でなく利権団体だ。そして義教はかつて天台座主を務めた男である。内部から見ればいかに比叡山が腐敗していたのかよくわかるのだろう。比叡山が政治的不満から園城寺を焼き討ちするという事件が起こった。これに義教は園城寺を援護し近江坂本まで進出する。これに比叡山は驚き神輿を引き上げ義教は兵を引く。1434年、叡山が鎌倉公方持氏と結託し義教に対して呪詛を行っているという情報が入った。義教は叡山近辺の街道と琵琶湖上の交通を封鎖。六角・京極軍に叡山攻撃を命じる。近江にある叡山の荘園は尽く押えられ、比叡山軍も次々と打ち破られる。僧兵達は最後の手段と根本中堂に立て篭もり義教を非難する。それでも攻撃を止めない義教に屈した僧達は根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げる。
実は信長以前に比叡山を焼いたという快挙を成し遂げたのが義教だった。
義教は叡山に関する噂を語る事を禁じ、違反した行商人たちの首をはねた。
伏見宮貞成王は「万人恐怖」と日記に記す。信長の先駆者の次の標的は鎌倉府である。
2007年01月19日
歴史ノート 鎌倉公方
最近はよく自炊をします。先だって作ったホワイトソース用の小麦粉と、オムライス用の卵を使いたくてお好み焼きを作りました。パンやパスタを作るほどマメじゃないです。
室町幕府最大の弱点は地方分権でした。要は強力な守護大名が多く将軍の権力が弱いという事です。特に悩みの種は鎌倉府の存在でした。
鎌倉府Wikipedia
鎌倉府の家系は尊氏の次男基氏を祖とし、鎌倉公方(関東公方)とも呼ばれ関東に将軍がもう一人居るような存在です。それを補佐するのは関東管領の上杉氏です。もともと武士の勢力が強い関東に将軍に匹敵する人物が居る。これは危険な状態です。
二代氏満も三代満兼も将軍の座に野心を持っていた。表面化したのは1416年に起こった上杉禅秀の乱です。
四代鎌倉公方持氏はささいな落ち度で配下の武士の領地を没収した。関東管領上杉氏憲(禅秀)はこれを諌止したが持氏はこれを聞かず、氏憲が辞表を提出したのをいいことに、氏憲のライバルである上杉憲基を後任に任命した。怒った氏憲は自宅に引篭もり持氏と対立する。
この対立に喜んだのが義満の子で天皇になりそこなった義嗣。氏憲に反乱をそそのかし、自らも京で反乱し幕府を牛耳ろうという計画だ。氏憲はかねてより持氏に不満を抱いていた持氏の叔父満隆と連絡をとり鎌倉で挙兵、持氏を急襲する。不意をつかれた持氏・憲基は駿河へ脱出、氏憲は満隆を立てて鎌倉を掌握するが、肝心の義嗣が京での反乱に失敗し出奔、捕らえられ斬られた。
翌年幕府の援護を受けた持氏と駿河の今川範政により鎌倉に追い詰められた氏憲・満隆は自害する。(参考・「逆説の日本史7」井沢元彦/小学館)
その後持氏は鎌倉公方に復帰し、反持氏派は徹底的な弾圧を受け、それにより持氏の力は乱以前より強くなった。
この鎌倉公方に遂に危機が訪れる。絶対的権力の確立を目指す将軍が現れるのだ。
室町幕府最大の弱点は地方分権でした。要は強力な守護大名が多く将軍の権力が弱いという事です。特に悩みの種は鎌倉府の存在でした。
鎌倉府Wikipedia
鎌倉府の家系は尊氏の次男基氏を祖とし、鎌倉公方(関東公方)とも呼ばれ関東に将軍がもう一人居るような存在です。それを補佐するのは関東管領の上杉氏です。もともと武士の勢力が強い関東に将軍に匹敵する人物が居る。これは危険な状態です。
二代氏満も三代満兼も将軍の座に野心を持っていた。表面化したのは1416年に起こった上杉禅秀の乱です。
四代鎌倉公方持氏はささいな落ち度で配下の武士の領地を没収した。関東管領上杉氏憲(禅秀)はこれを諌止したが持氏はこれを聞かず、氏憲が辞表を提出したのをいいことに、氏憲のライバルである上杉憲基を後任に任命した。怒った氏憲は自宅に引篭もり持氏と対立する。
この対立に喜んだのが義満の子で天皇になりそこなった義嗣。氏憲に反乱をそそのかし、自らも京で反乱し幕府を牛耳ろうという計画だ。氏憲はかねてより持氏に不満を抱いていた持氏の叔父満隆と連絡をとり鎌倉で挙兵、持氏を急襲する。不意をつかれた持氏・憲基は駿河へ脱出、氏憲は満隆を立てて鎌倉を掌握するが、肝心の義嗣が京での反乱に失敗し出奔、捕らえられ斬られた。
翌年幕府の援護を受けた持氏と駿河の今川範政により鎌倉に追い詰められた氏憲・満隆は自害する。(参考・「逆説の日本史7」井沢元彦/小学館)
その後持氏は鎌倉公方に復帰し、反持氏派は徹底的な弾圧を受け、それにより持氏の力は乱以前より強くなった。
この鎌倉公方に遂に危機が訪れる。絶対的権力の確立を目指す将軍が現れるのだ。
2007年01月18日
歴史ノート 人として全てを手に入れた男の次の行動
廉価版の「キン肉マン」でロビンマスクが自ら運命の糸を切りマンモスマンにタワーブリッジを掛けるところでジーンとしてしまいました。ロビンマスクは常に格好良いですね。
「日本歴史上に、天皇家を超える実力者が多く現れている。平清盛、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、さらには北条氏でも徳川氏でも、なろうと欲すれば天皇になれただろに、それをしなかった。なぜか?歴史家はこれを十分に説明してくれない」(松本清張)
南北朝合一(統一でなく合一というのは臣下である義満によって皇位が操作される等ありえない、という論からだそうです。統一の方が意味合いが近いとは思いますが混乱を避けるため合一にします)後、義満の権力権威はさらに強化される。
ここでちょいと触れておきたいのは義満と当時の後円融上皇との関係で、実は二人は母親同士が兄弟であった、つまり従兄弟、しかも同い年。そして鎌倉時代の承久の乱以後、天皇に対する神聖感がかなり損なわれていた。高師泰などは「天皇など要らぬ。金属で作った像でも置いておけ」と言ったくらい。
どうも義満は後円融上皇の夫人達と密通していたらしい。そして後円融はそれを咎める事はできず自殺未遂を計った。幸いにもそれは止められたが義満の力はそれくらい強かった。なにせ朝廷が義満のハレムになっていたのだから。
そして後円融が三十六歳で崩御すると着々と皇位簒奪に取り掛かる。
嫡男の義持に将軍職を譲り、自らは太政大臣に昇進する。征夷大将軍と太政大臣を歴任したのは義満が初めてで武家社会と公家社会の両方で位人臣を極めてしまう。一年後出家して道義と号した。出家と聞くと引退のようだが義満は違う。将軍も太政大臣も偉い事は偉いが、天皇の臣下である事には間違いない。そのシステムから脱却するために出家したと考えた方が正しい。
九州探題の今川貞世を罷免し、西国の大大名大内義弘を挑発し討伐。これで義満に対抗できる勢力は無くなった。
子供達を次々と門跡寺院に送り込み、非公式ながら朝廷の人事権も掌握していた義満は北山第を建設。現在は金閣寺のみ残っているがこれは寺ではない、本当はもっと大きく義満の大内裏というべきものだろう。
1401年明より懐良親王に代わって日本国王に冊封される。
軍事、祭祀、宗教といった権力を一手に握った男が日本国王となった。残る仕事はただ一つである。
義満の狙いは溺愛していた次男の義嗣を登極させ、自身は上皇になることだった。(将軍になった義持とは不仲であったらしい)
1408年3月4日、元服前に異例の任官をして従五位下に叙せられる。ついで後小松天皇が北山第に行幸した際に天盃を下賜される。行幸中の3月24日、正五位下左馬頭に叙任、さらに同月28日には従四位下に叙せられ、翌日、還幸のお礼言上に参内して左近衛中将に進む。同年4月25日、宮中で内大臣が加冠する親王並の形式で元服して、従三位参議にのぼった。
(足利義嗣Wikipedeia)
まさに準備万端整った後は譲位させるだけ、という一週間後五十一歳で義満は急死する。死因は「風邪」とも「流行り病」とも言われている。
ここにやはり疑問を感じるわけで。これだけ状況が整って急死したとしたら暗殺以外にはありえないだろう。同じ武家として足利氏だけが突出した存在になるのは許せないという他の大名達か、それとも兄である自分を差し置いて登極しようとする弟が許せない義持か、それとも万世一系を守ろうとする朝廷か、犯人はわからない。これだけの実力を持った政治家でも天皇になる事は不可能だったのである。朝廷から送られた称号は「鹿苑院太上法皇」。但しこれは義持が辞退してる。
日本で唯一起ころうとしていた易姓革命の事件でした。
「日本歴史上に、天皇家を超える実力者が多く現れている。平清盛、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、さらには北条氏でも徳川氏でも、なろうと欲すれば天皇になれただろに、それをしなかった。なぜか?歴史家はこれを十分に説明してくれない」(松本清張)
南北朝合一(統一でなく合一というのは臣下である義満によって皇位が操作される等ありえない、という論からだそうです。統一の方が意味合いが近いとは思いますが混乱を避けるため合一にします)後、義満の権力権威はさらに強化される。
ここでちょいと触れておきたいのは義満と当時の後円融上皇との関係で、実は二人は母親同士が兄弟であった、つまり従兄弟、しかも同い年。そして鎌倉時代の承久の乱以後、天皇に対する神聖感がかなり損なわれていた。高師泰などは「天皇など要らぬ。金属で作った像でも置いておけ」と言ったくらい。
どうも義満は後円融上皇の夫人達と密通していたらしい。そして後円融はそれを咎める事はできず自殺未遂を計った。幸いにもそれは止められたが義満の力はそれくらい強かった。なにせ朝廷が義満のハレムになっていたのだから。
そして後円融が三十六歳で崩御すると着々と皇位簒奪に取り掛かる。
嫡男の義持に将軍職を譲り、自らは太政大臣に昇進する。征夷大将軍と太政大臣を歴任したのは義満が初めてで武家社会と公家社会の両方で位人臣を極めてしまう。一年後出家して道義と号した。出家と聞くと引退のようだが義満は違う。将軍も太政大臣も偉い事は偉いが、天皇の臣下である事には間違いない。そのシステムから脱却するために出家したと考えた方が正しい。
九州探題の今川貞世を罷免し、西国の大大名大内義弘を挑発し討伐。これで義満に対抗できる勢力は無くなった。
子供達を次々と門跡寺院に送り込み、非公式ながら朝廷の人事権も掌握していた義満は北山第を建設。現在は金閣寺のみ残っているがこれは寺ではない、本当はもっと大きく義満の大内裏というべきものだろう。
1401年明より懐良親王に代わって日本国王に冊封される。
軍事、祭祀、宗教といった権力を一手に握った男が日本国王となった。残る仕事はただ一つである。
義満の狙いは溺愛していた次男の義嗣を登極させ、自身は上皇になることだった。(将軍になった義持とは不仲であったらしい)
1408年3月4日、元服前に異例の任官をして従五位下に叙せられる。ついで後小松天皇が北山第に行幸した際に天盃を下賜される。行幸中の3月24日、正五位下左馬頭に叙任、さらに同月28日には従四位下に叙せられ、翌日、還幸のお礼言上に参内して左近衛中将に進む。同年4月25日、宮中で内大臣が加冠する親王並の形式で元服して、従三位参議にのぼった。
(足利義嗣Wikipedeia)
まさに準備万端整った後は譲位させるだけ、という一週間後五十一歳で義満は急死する。死因は「風邪」とも「流行り病」とも言われている。
ここにやはり疑問を感じるわけで。これだけ状況が整って急死したとしたら暗殺以外にはありえないだろう。同じ武家として足利氏だけが突出した存在になるのは許せないという他の大名達か、それとも兄である自分を差し置いて登極しようとする弟が許せない義持か、それとも万世一系を守ろうとする朝廷か、犯人はわからない。これだけの実力を持った政治家でも天皇になる事は不可能だったのである。朝廷から送られた称号は「鹿苑院太上法皇」。但しこれは義持が辞退してる。
日本で唯一起ころうとしていた易姓革命の事件でした。
2007年01月17日
歴史ノート 絶対的権力の確立
予備校で皆さんに突っ込まれました。うっかりしていたなぁ。
足利義満Wikipedia
イザワ先生曰く「日本史上最大の怪物政治家」だそうですが。
何故そうかと言うと、皇位簒奪を目論んだからであります。私もそう思います。
二代将軍義詮の嫡子として生まれ父義詮が早逝したために11歳で将軍となる。江戸幕府と同じで室町幕府も重臣による合議制を用いていたため子供が将軍でも問題は無い。
義満の少年期から青年期は管領の細川頼之が政務を取り仕切る。頼之はなかなか大した政治家で、応安半済令で公家や寺社との関係を保ち、一方で武断派の大名を抑え、京の五山制度を整えたり、九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣し、また南朝との和平交渉も行っていた。
義満自身は将軍の私兵とも言える奉公衆を整備する。足利の私兵であった細川・斯波・上杉・土岐・といった連中はもう守護大名となっていて将軍の為に働くとは限らないのです。
ところが絶対的な権力ほど日本で脆いものはない。
反頼之派の斯波義将や土岐頼康といった守護大名が義満邸を包囲、頼之の罷免を求める。この時代の武士は皆実力行使だ。
義満はこの争いに積極的に介入して将軍の権力を確立する。要は頼之を失脚させたり復帰させたり、土岐氏内の内紛に介入したり、他の守護大名でも山名氏は挑発され討伐されている。義満や子の義教は守護大名の力を削り大名による連合政権から将軍の独裁政権を築こうとした。ただ二人共やり過ぎたのかもしれない。
将軍としての権力を確立した義満は内大臣、左大臣と官位の昇進を続け、1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり、淳和・奨学両院別当を兼任、准三宮の宣下をうけ、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。
そして南朝の勢力が弱まると和平交渉に入った。
その条件とは、南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に譲位すること、今後は両統が交互に即位すること、諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とすること。(実際は荘園だらけで国衙領なんてものはほとんど無いのだけれども)
後亀山天皇から神器を後小松天皇に接収させ二つに分かれていた皇統は元に戻った。ところが義満はこれを反故にする。怒った南朝勢力は再び吉野へ落ち以後後南朝と呼ばれるが、もはや政治勢力として復帰する力は無くなった。
義満は卑怯ですがこの事でとりあえず戦乱が収まったのだから評価するべきだろう。しかし怪物義満の本当の姿はこれから。
足利義満Wikipedia
イザワ先生曰く「日本史上最大の怪物政治家」だそうですが。
何故そうかと言うと、皇位簒奪を目論んだからであります。私もそう思います。
二代将軍義詮の嫡子として生まれ父義詮が早逝したために11歳で将軍となる。江戸幕府と同じで室町幕府も重臣による合議制を用いていたため子供が将軍でも問題は無い。
義満の少年期から青年期は管領の細川頼之が政務を取り仕切る。頼之はなかなか大した政治家で、応安半済令で公家や寺社との関係を保ち、一方で武断派の大名を抑え、京の五山制度を整えたり、九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣し、また南朝との和平交渉も行っていた。
義満自身は将軍の私兵とも言える奉公衆を整備する。足利の私兵であった細川・斯波・上杉・土岐・といった連中はもう守護大名となっていて将軍の為に働くとは限らないのです。
ところが絶対的な権力ほど日本で脆いものはない。
反頼之派の斯波義将や土岐頼康といった守護大名が義満邸を包囲、頼之の罷免を求める。この時代の武士は皆実力行使だ。
義満はこの争いに積極的に介入して将軍の権力を確立する。要は頼之を失脚させたり復帰させたり、土岐氏内の内紛に介入したり、他の守護大名でも山名氏は挑発され討伐されている。義満や子の義教は守護大名の力を削り大名による連合政権から将軍の独裁政権を築こうとした。ただ二人共やり過ぎたのかもしれない。
将軍としての権力を確立した義満は内大臣、左大臣と官位の昇進を続け、1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり、淳和・奨学両院別当を兼任、准三宮の宣下をうけ、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。
そして南朝の勢力が弱まると和平交渉に入った。
その条件とは、南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に譲位すること、今後は両統が交互に即位すること、諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とすること。(実際は荘園だらけで国衙領なんてものはほとんど無いのだけれども)
後亀山天皇から神器を後小松天皇に接収させ二つに分かれていた皇統は元に戻った。ところが義満はこれを反故にする。怒った南朝勢力は再び吉野へ落ち以後後南朝と呼ばれるが、もはや政治勢力として復帰する力は無くなった。
義満は卑怯ですがこの事でとりあえず戦乱が収まったのだから評価するべきだろう。しかし怪物義満の本当の姿はこれから。
2007年01月16日
歴史ノート 日本国王良懐
「お金じゃない」って流行っているんですかね。
後醍醐天皇が崩御しようが、尊氏が死去しようが歴史は止まらない。
九州の南朝勢力の代表懐良親王について。
懐良親王Wikipedia
懐良親王は後醍醐天皇の命により征西大将軍に任命され吉野から九州へ上陸。菊地氏や阿蘇氏といった南朝勢力に迎えられる。九州には鎮西総大将として一色範氏、仁木義長の北朝勢力、そして尊氏の庶子で直義の養子である直冬が居り勢力は拮抗していました。
懐良親王を擁立した菊地氏は北朝勢力を次々と破りついには大宰府を制圧します。
また懐良親王は明に「日本国王良懐」として冊封を受け、対外的に日本国王は懐良親王という事実ができてしまいます。(何故名前が逆になってしまったのかはわからない)後に足利義満はこの事に苦しめられます。
懐良親王の勢力は義満の代に切れ者今川貞世(了俊)が九州探題に任命されるまで残ります。「明徳の和約」だけで南北朝が一つに戻った訳ではないのです。
次は怪物政治家足利義満を。
後醍醐天皇が崩御しようが、尊氏が死去しようが歴史は止まらない。
九州の南朝勢力の代表懐良親王について。
懐良親王Wikipedia
懐良親王は後醍醐天皇の命により征西大将軍に任命され吉野から九州へ上陸。菊地氏や阿蘇氏といった南朝勢力に迎えられる。九州には鎮西総大将として一色範氏、仁木義長の北朝勢力、そして尊氏の庶子で直義の養子である直冬が居り勢力は拮抗していました。
懐良親王を擁立した菊地氏は北朝勢力を次々と破りついには大宰府を制圧します。
また懐良親王は明に「日本国王良懐」として冊封を受け、対外的に日本国王は懐良親王という事実ができてしまいます。(何故名前が逆になってしまったのかはわからない)後に足利義満はこの事に苦しめられます。
懐良親王の勢力は義満の代に切れ者今川貞世(了俊)が九州探題に任命されるまで残ります。「明徳の和約」だけで南北朝が一つに戻った訳ではないのです。
次は怪物政治家足利義満を。
2007年01月15日
歴史ノート 観応の擾乱
今日は相棒の結婚披露パーティーでした、おめでとうございます。
新婦のドレスが着物っぽくて素敵でした。
司会の朝之助兄さんはマイクを置いて携帯であちこち撮影していました。働けよ(笑)
観応の擾乱Wikipedia
後醍醐天皇吉野へ落ちて崩御、新田義貞、北畠顕家といった各地の南朝方の武将も次々と討ち取られ、北朝の勝利は決まったかに見えましたが、その北朝勢力も一枚岩ではありませんでした。
軍事は尊氏を始め、足利家執事の高師直・師泰兄弟等の勢力が握り、政務は尊氏の弟直義が執っていました。この兄弟によるバランスはとても良いのですが、高師直を中心とする勢力と直義が対立します。
高師直という人は後世「仮名手本忠臣蔵」で吉良上野介の役をやってしまうというくらいの乱暴者で、貴族や寺社の荘園を勝手に取り上げたりしています。その皺寄せが直義の下へやってきて次第に対立したとか言われています。
直義の要請により師直は執事を解任され、直義は光厳上皇に師直追討の院宣を要請して師直を討とうとしますが、事前に察知した師直によって先制攻撃されてしまいます。直義は尊氏邸に逃げ込みますが師直はこれを包囲、直義派の上杉重能、畠山直宗の身柄を要求します。重能・直宗を配流、直義の出家を条件に師直は包囲を解きます。
翌年、尊氏の庶子で直義の猶子であった直冬を討つために尊氏は九州へ出陣すると直義は京を脱出、反師直派を集め兵を募りますが光厳上皇による直義追討令が出ると南朝へ降ります。
北朝の将軍の弟で事実上のナンバー2が南朝へ降伏したのです。直義軍は京を制圧、引き返した尊氏も打出浜の戦いで直義に敗れ、高師直・師泰兄弟を出家させる事で和議を結びます。高兄弟は摂津から京都への護送中に直義派の上杉能憲により謀殺され直義は政務に復帰します。
その後も対立は続き(師直と直義から尊氏と直義と図式は変わる)尊氏・義詮親子は反乱鎮圧と見せかけて京を挟撃、直義一派は京を脱出し鎌倉へ至ります。尊氏は鎌倉へ攻め込もうとしますが、京を留守にしている間に南朝(直義幸福により息を吹き返した)勢力に襲われてはたまらないと、なんと今度は尊氏が南朝に降伏します。
尊氏は義詮を京に残し鎌倉へ進軍、直義は降伏し幽閉先で急死します。(毒殺説あり)
ところが南朝に降伏したというのは甘い事ではなく、義詮は近江へ逃れ北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王等は南朝へ連行されます。関東の南朝勢力も尊氏を鎌倉で破ります。尊氏・義詮親子はその後なんとか京・鎌倉を奪還しますが南朝はその後も勢力を保ちつづけたのでした。
兄弟が対立の末交互に南朝に降伏したため、南朝はすっかり元気になってしまいました。北朝のトップまで降伏するとは異常事態です。この時後醍醐天皇が偽物だと主張した神器は南朝に渡っています。やはり本物だったのか・・・
新婦のドレスが着物っぽくて素敵でした。
司会の朝之助兄さんはマイクを置いて携帯であちこち撮影していました。働けよ(笑)
観応の擾乱Wikipedia
後醍醐天皇吉野へ落ちて崩御、新田義貞、北畠顕家といった各地の南朝方の武将も次々と討ち取られ、北朝の勝利は決まったかに見えましたが、その北朝勢力も一枚岩ではありませんでした。
軍事は尊氏を始め、足利家執事の高師直・師泰兄弟等の勢力が握り、政務は尊氏の弟直義が執っていました。この兄弟によるバランスはとても良いのですが、高師直を中心とする勢力と直義が対立します。
高師直という人は後世「仮名手本忠臣蔵」で吉良上野介の役をやってしまうというくらいの乱暴者で、貴族や寺社の荘園を勝手に取り上げたりしています。その皺寄せが直義の下へやってきて次第に対立したとか言われています。
直義の要請により師直は執事を解任され、直義は光厳上皇に師直追討の院宣を要請して師直を討とうとしますが、事前に察知した師直によって先制攻撃されてしまいます。直義は尊氏邸に逃げ込みますが師直はこれを包囲、直義派の上杉重能、畠山直宗の身柄を要求します。重能・直宗を配流、直義の出家を条件に師直は包囲を解きます。
翌年、尊氏の庶子で直義の猶子であった直冬を討つために尊氏は九州へ出陣すると直義は京を脱出、反師直派を集め兵を募りますが光厳上皇による直義追討令が出ると南朝へ降ります。
北朝の将軍の弟で事実上のナンバー2が南朝へ降伏したのです。直義軍は京を制圧、引き返した尊氏も打出浜の戦いで直義に敗れ、高師直・師泰兄弟を出家させる事で和議を結びます。高兄弟は摂津から京都への護送中に直義派の上杉能憲により謀殺され直義は政務に復帰します。
その後も対立は続き(師直と直義から尊氏と直義と図式は変わる)尊氏・義詮親子は反乱鎮圧と見せかけて京を挟撃、直義一派は京を脱出し鎌倉へ至ります。尊氏は鎌倉へ攻め込もうとしますが、京を留守にしている間に南朝(直義幸福により息を吹き返した)勢力に襲われてはたまらないと、なんと今度は尊氏が南朝に降伏します。
尊氏は義詮を京に残し鎌倉へ進軍、直義は降伏し幽閉先で急死します。(毒殺説あり)
ところが南朝に降伏したというのは甘い事ではなく、義詮は近江へ逃れ北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王等は南朝へ連行されます。関東の南朝勢力も尊氏を鎌倉で破ります。尊氏・義詮親子はその後なんとか京・鎌倉を奪還しますが南朝はその後も勢力を保ちつづけたのでした。
兄弟が対立の末交互に南朝に降伏したため、南朝はすっかり元気になってしまいました。北朝のトップまで降伏するとは異常事態です。この時後醍醐天皇が偽物だと主張した神器は南朝に渡っています。やはり本物だったのか・・・